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なぜスマホでポチポチつぶやくか

そういえばブログとかあったな、と思い出したので徒然なるままに書き連ねる。

誰も僕の日常に興味はないと思うが、僕はなにかをつらつらと言葉にすることがすきなのだ。

そして、僕は僕の言葉がすきなのだ。

 

 

昔からよくどうでもいいことを書いていた

小さいころからそばにインターネットがあったので、僕はいろいろなところにとりとめのないことを書き込んできた。

古くはぱどタウン、今はなき2ちゃんねる、その他もろもろのSNSコミュニティ。

特に友達はできなかった。

ただ自分の気持ちを書きたいときに書いていた。

最近は、というかもう8年になるけれど、Twitterに毎日書き込んでいる。

その数およそ5万ツイート。

膨大な時間を捧げて日常をつぶやいてきたし、他人のつぶやいている日常をみてきた。

無駄か無駄じゃないかでいうと、確実に無駄な時間だったけど、つぶやきたかった、言葉にしたかったんだから仕方がない。

僕の日常は、僕が言葉にする程度には価値があった。

 

 

言葉にすることは感情から脳を解放させること

なぜそんなにつらつらとどうでもいい言葉をつむぐことに時間を捧げているのかというと単純に気持ちが楽になるのだ。

思考・感情を言葉にすることは、その思考・感情から脳のリソースを解放させることだと僕は考えている。

 

例えば数学の問題を解くときに、途中の計算式を回答用紙の空白にメモする。

それは、その次のステップで行う計算や思索のために、途中の計算式をアウトプットすることで脳のリソースを解放することだ。

必要な一時記憶を回答用紙という記憶媒体に外注すると考えるとよい。

脳の片隅に「あの途中式の結果は~だ」と記憶しておくよりも「途中式の結果は目の前の紙をみればよい」と意識するだけのほうが他のことに頭をまわしやすい。

 

僕たちは日々いろいろな感情に振り回され、へこみ、嘆き、悲しみ、たまに喜んだりする。

そんな些細な日常に些細な感情でいちいち振り回されるのはたいへんだけど言葉にすることでいくぶんか気持ちが楽になる。

 

感情を言葉にアウトプットする。

感情が外注される。

それだけで社会性を持つ言葉というツールによって個人性が希釈される。

いくぶんか一般的なfeelingになる。

言葉にすることで、属人的な・超個人的な・この世界でたったひとりの僕しか知らない今この気持ちが世界中の人々に伝わるごくごく一般的な「気持ち」になる。

絶対的に僕しかしらないemotionalなこの特別な怒り・嘆き・悲しみが一般化・希釈化されることに幾分かの虚しさはあるが、それよりも感情を吐き出すことで気持ちが楽になる面がおおきい。

 

 

あと、自分の言葉がすき

つらつらとどうでもよいことを書くもう一つの理由は、恥ずかしいけれども、僕は僕の言葉がすきなのだ。

よい文章だとか熱いパッションが含まれているとか微塵も思わないが、僕の文章には僕にしか理解できないリズムがあり語彙があり言葉選びがある。

なぜなら僕が書いたのだから。

その言葉の背景、その言葉の含蓄、果てはその作者のバックグラウンドまで、すべてを把握できるのはもちろん僕しかいない。

文豪のつむぐ精緻な文章もすばらしいが、その文章のすべてを味わうことができる僕の文章は読んでいて心地がよい。

 

 

Twitterとかめっちゃ読み返す

だから結構どうでもいいつぶやきとかでも読み返したりする。

いろいろ思い出してたのしい。

未来をみるよりも過去を振り返ってぼーっとしてるほうがすきだ。

振り返る男なのだ。

 

 

貴様に伝えたいわけではないこのKIMOCHI


THE MATSURI SESSION - KIMOCHI

 

向井秀徳は今このKIMOCHIを貴様に伝えたいらしいが、僕は相手に伝えることよりも未来の僕に伝えたい。

今の僕がどのような状態であったのかを伝えたい。

ごくごく平凡な僕という人物が今この時どのような感情を持っていたのかを未来の僕に伝えたい。

伝わればよい。

伝わってもよい。

 

 

 

 

みたいな気持ちの悪いことを書いていて、

なんだかんだいって僕は僕のことを結構信頼していて好きなのかもしれないと思った。

日常はしんどい。

毎日しんどく、今まで築いてきた日常をぜんぶ捨ててやろうかと思うことさえある。

が、僕は僕の日常をすきではないのであって、本体のほうはなんだかんだいってすきなのだと気づいた。

 

以上。